70年代生まれ女子が通ったクラブから渋谷系の話

90年代。音楽とカルチャー 個性を大事に

私は人口約2000人という当時村だった場所で生まれました。

文化的な触れ合いはほぼテレビです。

なのでバブルの世界を指をくわえて見ていた高校生でした。

バブル。。

そんな時代がありました。

私は1974年生まれ。高校卒業する頃ちょうどバブルが弾けました。

なんつータイミングの悪い世代やねん、と思いました。笑

就職氷河期世代というやつですね。

4つか5つ上の人達から聞く話だと、お財布が常にパンパンだったとか、何でも欲しいものを買っていたとか、大手就職先がいくつも内定してチヤホヤされたとか

そしてその世代は一度いい思いを知ってしまっているからか、無駄にプライド高い人が多いです。(あくまで個人的な印象です)

ブランド品が好きな方が最も多い世代でしょう。(あくまで見ていてそう思うだけです)

幸か不幸か、私自身は進学するという選択肢はなかったため中学3年で商業高校に入ろうと決めてました。

1993年に新卒で某流通小売業に就職し、社会に出たと同時にバブルは消え去りました。

扇子をヒラヒラさせたお姉さんも、ジュリアナ東京も、遥か遠くでセピア色に染まっていました。

そしてじわじわクラブミュージックが熱い盛り上がりを見せ始めていた頃。

回想録な記事となりますが、お時間あればお付き合いくださいませ。

小学生の私が好きな歌手、寺尾聰

中学生の頃。

1980年代後半ぐらいです。

TVはアイドル全盛期。聖子ちゃんはもちろん、中森明菜、トシちゃん、マッチ、シブがき隊、少年隊、薬師丸ひろ子、原田知世、吉川晃司、南野陽子、堀ちえみ、松本伊代、、

歌番組も色々ありました。

トップテン、ザ、ベストテン、夜のヒットスタジオ、のみならず8時だよ、全員集合!(懐)では必ず上記のアイドル達が歌をお披露目するのです。

TVが最も国民のエンターテイメントだったと言っても過言ではないでしょう。

そして小学生の私はいつも思っていました。

みんな歌ヘタやなあ、と。笑

アイドルってだけで何で歌番組に必ず出るのかね?(毒舌)

私は田舎でも変わった方でしたので、周りがキャーキャー言っていても全然興味がなかったのです。

小学生の頃この人最高と思った人は、

安全地帯、寺尾聰、テレサテン、ラッツ&スター、そしてチェッカーズ。

安全地帯のかっこよさはそれはもう、たまりませんでしたよ。。

よろしければお聴きになってください。

セクシーすぎる歌声とメロディ、、小学生にもグッと来るのです。

寺尾聰の歌声も本当にかっこよかったなあ。

ユニコーンからダンス甲子園

バブルを知らない70年代生まれ女子が語る、あの頃の渋谷系とクラブと私。 laliberte カセットテープ

1980年代から1990年代と言えば、カセットテープ(知ってます?笑)からCDへと音源が移り変わる頃。

何だこのキラキラした薄っぺらい円盤は?と驚いたことを懐かしく思い出します。

カセットテープは私は大抵、TDKかMAXELのハイポジ。

懐かしすぎます。泣

ハイポジは高音を特に捕まえて録音してくれるやつです。

そんなアナログ100%のカセットに風穴を開けたのがCD(コンパクトディスク)。

とは言え、当時でも一枚¥3000ぐらいしたのかな?

お小遣いも多くない私は、同級生が自慢げに音楽室でCDを見せびらかしているのを冷めた目で見ながら一緒に聴いてました。(聴くんかい)

そのCDはユニコーンの「服部」というアルバムでした。

私には2つ上の兄がいるのですが、当時私の兄も音楽に興味を持っていました。

色んなCDやカセットテープが部屋に置いてあったんですね。

で、こっそり兄の部屋にあるカセットを拝借し、たまたま聴いたのがユニコーン。

その衝撃というか、新鮮な喜びと言ったら。

何この音楽。面白すぎる・・・

アイドルじゃない音楽がやっぱりあるんだ・・・

中学時代からユニコーンを聴き、高校卒業まで何度かライブに足を運びました。(民生ファン)

何せ田舎だったものですから駅まで親に送ってもらっていました。

同じ高校に3人通っていたので、それぞれの親が交代で駅まで送り迎えするのです。

その車中、それぞれがチョイスした音楽をかけるのですね。

で、 その頃私がこよなく愛していたTV番組「元気が出るテレビ」でダンス甲子園というコーナーが始まったのです。

国会議員の山本太郎さん出身番組です。笑 

このダンス甲子園に使われている音楽がたちまち人気に。

MCハマーやスキャットマンジョンなどは代表的。当時大ブレイク。

ジュリアナ東京の人気とユーロビート系がずらっとCDショップに並び、ダンスミュージックをウォークマンで聴く高校生が多々いた気がします。(田舎の範囲で)

トキメキの出会い。渋谷系音楽

バブルを知らない70年代生まれ女子が語る、あの頃の渋谷系とクラブと私。 laliberte ピチカートファイブ
Pizzicato five

高校を出て、私は大手流通小売業に就職しました。

田舎から脱出できた喜びで胸がいっぱい。さあ、どんな新しい世界が待っているのかしら?

入った会社の寮で、同期入社の女の子数人と出会いました。

同じ階で同期で入社する女子数人と仲良くなり、一人はYちゃん。今でも心の共。

一人はTちゃんと言い、ファッションや性格が今まで周りには居なかった、個性的な女の子。

髪型も洋服も、どこでそういうの仕入れて来るんだろう?と思っていました。

1993年の冬のこと。

Tちゃんからビョークのチケット買ってきてくれない?と頼まれた私は、(びょーくって誰?)と思いながら、仕事帰りに名古屋のボトムラインというライブハウスへチケットを買いに行きました。

それから、Tちゃんの部屋でビョークのミュージックビデオを観た感想。

今までにない感じ。

Tちゃんは私と同じで少々変わり者。

自分の世界を持っていて、行動が読めない感じ。

一方のYちゃんは、同い年でも安定感があって、母親の雰囲気すら漂わせている女の子。

Yちゃんのことを私もTちゃんもまるで保護者のように信頼を寄せていました。

Tちゃんと私は音楽が好きで、ファッションが好き。そして遊ぶのも好き。

ビョーク、アリーヤ、主にクラブミュージックを好んで聴き、それこそたまにクラブへ行っては一緒に遊んでいました。

でも一番最初にクラブへ連れて行ってくれたのは、仕事先の先輩Fさんでした。年上の女友達。

私はその頃ほとんどの友人が年上でした。

何故かかまって貰えたのです。変わってたからなんでしょうね。。

そのFさんに、ある日何気なく言いました。

「TVで観たのだけど、クラブってところ行ってみたいんですよね〜」

するとFさんが、「え?じゃあ今度一緒に行く?」と誘ってくれて、後日一緒にクラブへ行くことに。

私はその頃名古屋に住んでいました。当時はバブルの名残りとも言うべきディスコから、ダンスシーンがクラブへ移行する頃。

名古屋の中心街栄に、ポツポツとクラブが出来始め、音楽や遊び好きな人たちが集っていました。

初めて連れて行ってもらったクラブに足を踏み入れる時はビビっていましたね。(怪しい。。暗い。。)

でも中に入ってすぐ、私の鼓動は心地よいダンスミュージックのリズムを、光は踊る人達を映し出し、自分がみるみるそこに惹かれてるのを感じました。

Fさんは常連らしく、バーカウンターでお酒を作ってる人や色んなお客さんとも顔見知り。

「この子初めて連れてきたのよー」と言って、まるで私のめんどう(?)見てくれてるよう。

Fさんの友達がまた面白い人ばかり、というか、普通に暮らしてたら何処で出会うんだろ?って感じの人々。

みんな私より5つ以上年上で、遊び方が大人というか、踊ってると思ったらふざけてばかり、お酒飲んでふざけてばかり、で仕事が早いとスッと帰っていく。なんか同い年の人と居るより本当に愉しいなあと思ったものです。

バブルを知らない70年代生まれ女子が語る、あの頃の渋谷系とクラブと私。 laliberte クラブミュージック

Fさんはレゲエが好きで、ボブマーリーをいつも聴いていました。

新婚旅行もジャマイカへ行っていたっけ。治安が悪いせいでホテルから一歩も出られなかったと言って、お土産に貝殻がガラスに埋まっているきれいな灰皿をくれました。

1995年。

この頃小沢健二とスチャダラバーの「今夜はブギーバック」がクラブではよく流れました。

Fさんの結婚式の2次会でも皆この曲を合唱。スティングのEnglishman in NewYorkも、Fさん経由で出会った曲。

私は21歳頃まで、TちゃんやFさんのような遊ぶことを愉しむ人達と多くの時間を過ごしました。

田舎や家に居場所を見つけられなかったそれまでの私。

新しい音楽と新しい人達に触れ、初めて自分の呼吸をしてる気がしていました。

私が私で居ることを面白いと言ってくれる人が居る。

名古屋で過ごした3年間は、いいこともそうじゃないこともあったけど、いい時間だったと思います。

休みの日の多くは栄のHMVやタワレコに行ってCDの視聴をし、時にはジャケ買いし、新しい音楽との出会いを求めました。

ラジオもZIPFMという局の、小林克也さんの番組を毎週聴いてましたね。

この頃知ったのがピチカートファイブです。

音楽、ビジュアル、全てに惹かれました。

バブルを知らない70年代生まれ女子が語る、あの頃の渋谷系とクラブと私。 laliberte ピチカートファイブ
何度も聴いたアルバム「Overdose] 1994

その後私もなんやかんやで結婚することになり、ある日、夫の車で出張先の東京へ付いていきました。

名古屋から東京へ行く道のりはワクワクドキドキです。

若い私の頭の中は、東京への憧れがみっちり詰まっていて、好奇心が破裂しそう。

標識が都内に変わって、千代田区、渋谷区、と看板を眺めながら、夜の東京を通り抜けていく。

この時車で聴いていた音楽がピチカートファイブの「東京は夜の7時」。

キラキラのネオン、野宮真紀の歌声。それらがまるで、何かのマジックのように心を捉えて離さない。

そして、私はその時、ああ自由でいたいなと思ったのです。

自由っていいなあと心底思ったのです。

子どもを産んで始めた、クリエイティブ活動

 laliberte 服作り
立体裁断で数年前に作った服です

それから出産し、自分の全てが子どもと家事に消費されていることに悶々とした日々を送っていました。

あんなに憧れていた温かい家庭を持てたじゃない?

親から受けられなかった気持ちを子どもに沢山注いでいこう。

でも何だろう、この違和感は。

というか、何かがそうじゃないでしょ?と言ってるのが聞こえるのです。

私は子育てと並行し自分でWEBを作ったり、服を作って売ることをしました。

自分で言うのもアレかもしれないが、この頃の私のクリエイティブは異常でした。

子育てしつつ夜もろくに寝ないで、パソコンとミシンに向かいました。

当時は自分でものを作ってWEBで売る人も今ほどおらず、作っている人同士が結構知り合いになりました。

この時期に出会った人で今も活躍しているイラストレーターの方も数名います。

この時、真剣に洋服を作ろうと決意しボディ(立体裁断をする為のトルソー)を買いました。

そして取りつかれたように服を作っていました。

 laliberte 服作り

子育てでのフラストレーション、これまで出来なかったことを思いっきりやりたい衝動、欲求、反動。

それまで抑圧していたものが、ワインの栓を弾き飛ばすように一気に溢れました。

そんな想いが、映画のスタイリストという経験もさせてくれたのでした。

1998年。

忘れもしない音楽との出会い、それは宇多田ヒカル。

車のラジオで何気に流れてきたAutomatic、それを紹介する小林克也。若干15歳だいう。え?私より7こも下?

ショックとも言える出会いでした。

今、誰もが獣ゆく細道

田舎の高校生だったある日。

私はスカートの丈を短くして登校しました。1990年頃の話。

私が通っていた高校は当時ロングスカートとペチャンコ鞄がスタンダード。いわゆるヤンキースタイル。

そこへ私は膝丈スカートとルーズソックスで登校したわけです。

車中で同じ曲を聴いていた幼なじみは当日ドタキャン。

何とも言い難い視線を浴びましたね。。案の定変わりモノ扱い。

全然いいんですけどね。

で、後日、クラスメートが「スカート短くしてくれない?」と頼みに来たのです。

1人、2人と。

ほらそうなるよね、と思ったのです。

先陣を切る人間はまずたたかれるのです。ポコポコと。

全然、いいんですけどね。

最近よく聴く音楽は、邦楽が多いです。

周りに回って、ひと昔前の曲も懐メロで心地よく耳に響くようになって来ました。

最近のお気に入りは、バービーボーイズ、田島貴男、globe、エレカシ、松任谷由実、エゴラッピン、マイケルジャクソンなど。

新しい音楽はSpotifyに入れています。

突然ですが、好きなアーティストの歌詞をここでご紹介。

「孤独とは言い換えりゃ自由 黙って遠くへ行こう」

「無けなしの命がひとつ、どうせなら使い果たそうぜ 悲しみが覆い被さろうと 抱き抱えていくまでさ」

「借りものの命がひとつ、厚かましく使い込んで返せ さあ貪れ笑い飛ばすのさ 誰も通れぬ程狭き道をゆけ」

椎名林檎と宮浩浩次の獣ゆく細道。

私はこの歌詞に勇気をもらってます。

誰も通れぬ程、狭き道を行けですからね!

コロナで世界の在り方が変わってしまった今。

誰もが獣のように細い道をかき分けながら生きている。

私は辛い時や悲しい時、音楽に宿っている歌い手の魂に自分を委ねることで、幾度も救われました。

だから今日は音楽への感謝と経緯を込めて、この記事を書きました。

お付き合いくださりありがとうございます^^

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